ご注意:「僕たちの春夏秋冬」をお読みになった後、食後に内服して下さい。決して先に読んではいけません。
読み口は決してよくありませんし、非常に中途半端。玲二は中学3年の春までしか書けてないです。要は白玉がこの辺で挫折したと……(笑
***********************************************************************************************************************
僕たちの春夏秋冬 玲二side
【小学校3年生 春】
引っ越した先のその町は、なんにもなかった。
やたらと山が近くて木が多くて、道は片側一車線。ビルもないしコンビニも通ってきた道に1軒だけ。何より人が少なかった。
走っている車だって軽トラばっかり。僕の好きな青ナンバーの車なんか1台も走っていない。あれで色んな国名覚えたんだけどな。
まあいいや……と、お母さんと看護師さんが車から兄さんをリフトで降ろすのを待っている間に、僕は目の前の新しい家をグルリと眺めた。
へぇ、1階しかないんだ。広さは今までと同じくらいかな。マンションの最上階よりエレベーターを待たないぶん兄さんの移動が楽ってことね。
家の中にいる分には、どこにいようと同じだから構わないけどさ。
お母さんと看護師さんは、兄さんをそうっとそうっと家の中に運んでいく。男の看護師さんだから段差を持ち上げるのも軽々だ。いずれあの辺にもスロープがつくんだろう。
お父さんは今日も仕事。前に会ったのは半月くらい前かな。
「大丈夫?もうすぐだからね?」
お母さんが兄さんに優しい声で話しかける。兄さんは少々不機嫌そうだ。
また僕に物を投げてこなきゃいいけど……その前にさっさと部屋に逃げ込んでしまおう。こういうのなんて言ったかな…そうだ『触らぬ神に祟りなし』だ。兄さんはお母さんの神様だもの。
さっそく自分の部屋に籠もろうとしたのに、お母さんに呼び止められてしまった。「ご近所に挨拶に行くから来なさい」って。
お母さんと2人で出かけるのは久しぶりだ。ちょっと嬉しい。
道の途中では図鑑で見た草や花が、リアルでいっぱい生えていた。
あれはシロツメグサ、ニチリンソウ…あっちにはヒメハギとハルジオン……え、あれもしかしてカタクリ?
「玲二、急ぐんだから速く歩いてちょうだい」
よく見ようと道の端に寄ったら、お母さんに怒られてしまった。
うん、そうだよね。早く兄さんのところに戻ってあげなきゃいけないもんね。ごめんなさい。
「俺、|樹生《たつき》ってんだ。よろしくな」
小麦色の肌をした1つ上の男の子が、僕を真っ直ぐに見据えてニコッと笑ってくれた。
言葉を返そうとしたけど、無駄話するとまたお母さんに怒られてしまう。
下を向いた僕に、それでも|樹生《たつき》くんは気を悪くすることもなく「おばさん、俺が玲二くんに町のことを教えるよ、いい?」って言ってくれて、お母さんも「嬉しいわ、よろしくね|樹生《たつき》くん」って言ってくれた。
嬉しいの?お母さん。
うん、僕も嬉しい。
二ノ宮|樹生《たつき》くん……その名前をよく覚えるように胸の中で繰り返して、僕は次の家へと早足で歩いて行くお母さんの後を追いかけた。
【小学校3年生 夏】
僕は勘違いしてた。
この町はなんにもないどころか、なんだってあった。
大きな道もビルも沢山のコンビニもショップも、必要ないからないだけで、必要なものは全部あったし向こうには無いものが山ほどあった。
そして|樹生《たつき》くん……タッくんはすごかった。
この町のこと、山のこと、川のこと、天気や植物や動物や…とにかく何でも知っていた。本に載ってないことを普通に知っていて、検索サイトより素早く知識を取り出してみせる。
山を風みたいに跳んで走って10分で虫かごをいっぱいにしたかと思えば、瞬きする間に川魚を両手で掴み上げてたりする。
何でもできちゃうタッくんは、すごいだけじゃない。うんっと優しかった。
待って!って言わなくても待ってくれるし、話しかければ「なんだ」って必ず振り向いてくれる。
何でも嫌がらずに丁寧に教えてくれるし、何かできたら褒めてくれる。
僕ができなくても眉なんかしかめない。「そのうち出来るようになるだろ」って笑い飛ばしてくれる。
「玲二、次行くぞ。足元気をつけろよ」
滑りそうな山道や川の中では、僕の手をギュッて握って僕に合わせて一緒に歩いてくれて、そうじゃなくても僕が手を伸ばせばいつだってサッと手を差し出してくれた。
すごいな、すごいなタッくん。
タッくんは、まるで強くて優しい太陽みたいな男の子だった。
タッくんに誘われていた夏祭りには行けなかった。
前日に兄さんが小さな発作を起こして「行きたい」なんて言える雰囲気じゃなかったから。仕方ないけどちょっと残念。
でもお祭りに行けなかった僕に、次の日タッくんはヨーヨーを二つくれた。「玲二のぶん、ゲットしといたぞ」って。
まん丸で綺麗な色がいっぱいのヨーヨー。
ゴムの輪っかを指にはめて動かすと、カシャカシャと中の水がいい音をたてる。
嬉しくてお母さんに見せたら「あら綺麗ね」って笑ってくれた。
でしょ?そうでしょ?これね、タッくんが……
「お兄ちゃんにあげましょう?きっと喜ぶわ」
「……うん……いいよ」
1週間後、ちょっとしぼんで1コは割れちゃってたけど、ヨーヨーは無事に僕の元に戻ってきた。
ゴミ箱に入ってたから、もういいんだよね。
【小学3年生 秋】
秋晴れの空を高く高く飛ぶトンボに、タッくんがシュッと仕掛けを投げる。
両端に小石がついた糸がくるくるっと空中を舞うのはすごくカッコイイ。トンボを狙うタッくんの真剣な目やバックスイングはもっとカッコイイ。
「ほらな、楽勝だろ」
糸に絡んだトンボを手に、ニッと笑うタッくん。
タッくんは簡単そうにやってみせるけど、実際にやるととんでもなく難しい。
やっぱりタッくんはすごい。
僕が逃がした連結トンボだってササッとゲットしてくれた。
――オスがメスをピッタリマークして見張ってんだよ
そういえばお父さんはお母さんをピッタリマークしてなくていいのかな。
ほかのオスにとられちゃうよ?
【小学3年生 冬】
タッくんに乗せてもらったソリはすごかった。
ビューンと早くて、両側から真っ白な雪が勢いよく上がって、風がすごく気持ちいいんだ。
こんなの初めて。遊園地のこどもコースターより全然楽しい。
だってタッくんと一緒だから。
後ろからギュッと抱きついても「もっとしっかり掴まれ!」って言ってくれる。お母さんみたいに「重い」とか「後にして」なんて事は、絶対にタッくんは言わない。
それに何遍だってノリノリで滑ってくれる。お父さんみたいに「10分だけだ」とも「時間切れだ」とも言わない。
ひとりだけのこどもコースターは寒いけど、タッくんと乗るソリはすごく温かい。
あったかくてカッコいい背中に胸をピッタリとくっつけると、楽しそうなタッくんの声がビリビリ伝わってきて胸の中までポカポカする。
「ただいまぁ!」
「玲二、大きな声を出さないで。お兄ちゃんが今さっき寝付いたばかりなの」
「ごめんなさいお母さん。でもね、僕ね、今日ソリで…」
「後にして玲二、お母さんも今のうちに寝ておきたいの」
「……うん、分かった」
【小学校4年生 春】
タッくんに木登りを教えてもらった。
最初はすごく難しかったけど、タッくんと同じ景色が見たくて頑張ったんだ。
「やったな玲二!登れたじゃねぇか!すげえよお前!やったー!」
ずっと付き合ってくれたタッくんは、木の下から僕を見上げてガッツポーズ。僕も枝に跨がってグッとガッツポーズを返した。
「登れたのがスゲーんじゃねぇよ玲二、へこたれずに頑張ったのがスゲーんだ!お前カッケーよ」
カッコいいタッくんにカッコイイって言われて、なんだか照れくさいけどムチャクチャ嬉しかった。
スルスルと木を登ってきたタッくんと一緒に見た夕焼けはすごくきれい。町のところどころに桜が咲いて、山にも桜が咲いて、それが少しずつ夕日に赤く染まっていく。
タッくんはいつもこんなに綺麗な景色を見てるんだね。
「ただいまお母さん、今日僕ね…」
「玲二、服が泥だらけよ。手も、顔も」
「うん、これはね、今日……」
「ああ、触らないで。お母さんの服まで汚れてしまうわ。すぐにお風呂に入りなさい。お兄ちゃんにバイ菌が|感染《うつ》ったらどうするの」
「……うん」
「そんな顔をしないで。貴方は恵まれてるのよ……健康なの。あなたは外でそうやって好きなだけ遊べるけどお兄ちゃんはそうじゃない…分かるわよね。あまり家ではしゃがないでくれたら、お母さん嬉しいな」
「分かったよ……お母さん」
お母さんには怒られちゃったけど、でも平気。
だってさっき見た桜の光景が胸の中に残ってたから。
――桜の枝は折れやすいんだ
うん、でも胸の中にしまった桜なら折れることはないよね。
大事な大事な僕の桜。僕だけの桜。
タッくんといると、いつだって満開なんだ。
【小学校4年生 夏】
今年は夏祭りに行けた。
去年は「行きたい」なんて言える雰囲気じゃなかったけど、僕ね、|閃《ひらめ》いたんだ。
じゃあ言わなきゃいいじゃない、ってね。
だってきっとお母さんは気がつかない。兄さんで忙しいからね。
看護やら介護やらは、|訪問看護師《プライベートナース》や|訪問介護員《ホームヘルパー》たちがしてるけど、それでもお母さんはずぅっと兄さんでイソガシイ。
だから僕がずっと部屋にいても、ずっと外にいても気がつかないと思うんだよね。
お母さんも「静かにしてね」って僕に言わなくて済むし、兄さんだって動き回る僕に機嫌を悪くすることもない。ほらね、みんなが幸せ。
「玲二、夜店はどこを回りたい?」
ニコニコと僕に訊いてくるタッくんの手は、しっかりと僕の手を握ってくれている。「俺がついてて、もう迷子にはさせねぇからな!」って。
少し前に僕が山で虫を深追いしすぎて迷子になりかけたから、心配してるみたい。ごめんね、僕もすっごく反省してるんだ。
でもあの時、タッくんはすぐに僕を見つけてくれた。
――どんな時も俺が必ず迎えに行くから!だから迷子になったらその場から動くな、いいな?
タッくんは必ず僕を探してくれる。見つけてくれる。迎えに来てくれる。
タッくんと一緒なら僕は迷子にはならない。絶対に大丈夫。
夜店はよく分かんないって言ったら「よし任せとけ。気になるものがあったら言えよ?」って僕の手を引いて走り出したタッくん。うん、タッくんが行くところなら絶対に楽しいに決まってる。
射的に千本引き、ヨーヨー吊りに金魚すくい……たこ焼きと綿あめは半分こ。
「あっちの方が安いぞ!」「あそこは安いけど小ちゃいね!」「景品がショボい!ほか行くぞ!」
僕たちは、いい匂いがする屋台の間を、キラキラするオモチャが並ぶ屋台の間を、手を繋いで駆け回った。
ほらやっぱり、タッくんといればずっと楽しい。
タッくんが見ているキレイな世界を、僕も一緒に見ていられる。
家に帰るとお母さんは思った通り、僕がいなかった事に気がついていなかった。
まあ出てったのも戻ったのも、自分の部屋の窓からだったからね。
でもそれで大正解。
タッくんから貰った綺麗な二匹の金魚。
これは僕のもの。
兄さんがカワイソウでも、お母さんがタイヘンでも、僕が健康でシアワセでも、絶対にあげたくない。
僕だけのキレイな金魚。
大事に大事に育てるんだ。
【小学校4年生 秋】
タッくんとキノコ狩りに行った。
山には数え切れないほどたくさんの種類のキノコが生えている。
特にタッくんが念入りに教えてくれたのは、食べられるキノコにそっくりな毒キノコの見分け方。
シイタケとカキシメジ、ヒラタケとツキヨタケ、クリタケとニガクリタケ……他にもまだいっぱいあった。
後で復習しようと、僕はこないだお父さんに買って送って貰ったスマホでキノコの写真を撮った。もちろんカッコいいタッくんの姿もね。
タッくんのお母さんが作ってくれたキノコの味噌汁がすごく美味しくて、僕も家に帰って作ってみた。
初めて味噌汁を作ったけど、けっこう美味しくできたと思う。
嬉しくてお母さんにも勧めたんだけど「後で頂くわ」ってお母さんは別の部屋に行ってしまった。
最近、お母さんは兄さんが寝付くと看護師さんのところに行くことが多い。色々と話し合うことがあるんだって。
タッくんと半分こしたお小遣いは袋に入れて、大切に『宝物部屋』に仕舞い込んだ。絶対に使わないんだ。お金なら使い切れないほどお父さんがくれるからね。
翌朝、そのまんまになっていたキノコの味噌汁は、勿体ないので僕ひとりでぜんぶ食べた。
うん、やっぱり美味しいな。
【小学4年生 冬】
久しぶりにお父さんが来た。2ヶ月半ぶりくらいかな。
SNSでは時々話してるけどね。今回は3日間もいられるんだって。
でもせっかくお父さんが家にいるのに、お母さんはますます兄さんにイソガシクしてて、兄さんのベッドから離れない。
ようやくお父さんとお母さんで話を始めたかと思ったら大声で怒鳴り合っている。
怒鳴り声は僕の部屋までよく聞こえてきた。
お母さん、いつも僕には「静かにしてね」って言ってるくせに。ダメだなぁ。
なるほど、怒鳴り合う予定だったから今日は看護師さんの時間をズラしたんだね。
きっと兄さんはもっとうるさいんじゃないかな。
兄さんはもう自分じゃ身体を動かせないから、僕みたいに耳も塞げないしね。
いっそ『宝物部屋』に籠もっちゃおうかなぁなんて思ったけど、このあとタッくんと遊ぶ約束してるから、今んところは金魚たちと一緒にガマンガマン。
ああやっぱり、ソリ遊びはすっごく楽しい。
「とっぶぞーー!」
タッくんと一緒に空を飛んだ。すごい、すごい!
空がきれい、森がきれい、雪がきれい……なによりタッくんの楽しそうな笑顔がきれい。
ギュッとタッくんにくっついてると、お腹も頬っぺたも温かくて、まるでお日様にくっついてるみたい。
同じ大声でもタッくんの大声は楽しい大声。いつだって僕をドキドキワクワクさせてくれる。
3日間いるはずのお父さんは、1日だけで帰ることにしたみたい。
「すまないな、玲二」
駐車場の車の前で、お父さんはそう言って僕の頭を撫でてくれた。
いや別にいいんだけど……あ、そうだ。
「お父さん、スマホありがとう。すごく嬉しかった」
「そうか、何か欲しいものがあればいつでも言うといい。小遣いも振り込んでおいたからな」
お父さんはいつでも港区に戻ってこいって言うけど、僕はタッくんがいるこの町がいい。
だからこのままでいいよ。
またSNSでね、お父さん。
【小学校5年生 春】
4月の終わり、僕は珍しく風邪をひいて熱を出してしまった。
今日はお母さんも看護師のおじさんも忙しい。
なぜなら兄さんが発作を起こしているから。
大丈夫だよ。
僕、風邪の時の熱の下げ方は分かってるし。
おかゆを食べて、薬を飲んで、寝る。
汗をかいたら着替えて、スポーツドリンクを飲んで、寝る。
それだけ。
ね、大丈夫でしょ。僕は自分で治せるよ。
――健康だからね。
汗をかいた下着とパジャマを着替えて、おかゆを食べる。
パックの封を切って、使い捨てのスプーンを突っ込んでそのまま食べられるから楽チンだ。
うん、だいぶ熱も下がった気がする。
コンコンコン
熱を測ろうとベッド脇の体温計に手を伸ばしたところで、窓が叩かれた。
え?と思って窓を開けたら、タッくんがいた。
「玲二、風邪だって?ホラこれ、見舞いだ」
窓の下からタッくんが両手を差し出してきた。
その手の中には真っ赤な木イチゴと……桜の花びら?
「お前、桜好きだろ?山の北側ならもしかして…って足を伸ばしたら、ギリギリ地面に花びらが残ってた。そん時に早成りのクサイチゴも見つけてな」
へへ…って笑ったタッくんが、窓から身を乗り出す僕の手に、それをそっと載っけてくれた。
「早くよくなれよ玲二。待ってるぞ」
タッくんはそう言って、手の中を覗き込む僕の頭をワシャワシャすると「じゃあな」って小声で手を振って、それから塀を軽々と跳び超えて帰っていった。
僕の手の中には、8つの小さくて真っ赤なクサイチゴと、淡いピンクの桜の花びらが10枚。
ベッドに戻って、そのつぶつぶのクサイチゴをひとつ、口に入れてみる。
甘くて……ほんのり酸っぱい味が口の中に広がった。
「おいしい……」
手の中の桜の花びらをもういちど数えながら、僕はモグモグと優しい甘さを噛みしめた。
タッくんがくれたクサイチゴは本当に美味しくて、美味しくて……
気がつけば、
なぜか僕はポロポロと涙をこぼしていた。
【小学校5年生 夏】
川で遊んでいたら、タッくんがおしっこに行くって言ってきた。
そういえば僕もトイレしたいかも……
「よし、じゃあ一緒にその辺で済ませよう」
二人で一緒におしっこするのは初めてかも。うん、連れションってやつだね。なんか特別に仲良しみたいで嬉しい。
目立たない草むらの斜面にタッくんが足で軽く穴を掘った。もちろん後でちゃんと埋めるため。「猫でもしてるマナー」なんだって。
「跳ねさすんじゃねぇぞ」
タッくんが短パンを下ろして、プルンとおちんちんを出した。
指でおちんちんを支えながらジャーッとおしっこをするタッくん……
……え?
その光景に、僕の身体はカチリと固まる。
そっか……タッくんも……おしっこするんだ。
いや分かってたし、当たり前なんだけど……なんていうか、ライダーやスーパーヒーローがおしっこするのを見ちゃった感じ。
そんなタッくんの姿を見てたら、なぜだかカーッと顔が熱くなってきて、それを誤魔化すように僕も急いで短パンを下ろした。
おしっこをしながらも、僕はタッくんから目が離せなかった。
自分の手でプルプルとおちんちんを振るタッくんに、なぜか胸がドキドキした。おかしいよね、男の子ならみんなしてる事だし当たり前のことなのに。
タッくんは何でもできる僕のスーパーヒーローだけど、僕と同じ人間で、同じ男の子だった……そんな当たり前のことに、僕は初めて気がついたのかもしれない。
その晩、僕はタッくんと川で遊ぶ夢を見て、
そうして翌朝、僕は精通を迎えた。
【小学校5年生 秋】
兄さんが都心の病院に入院することになった。
今回の発作がひどくて、このままだと合併症も起こして呼吸が危ないって。
バタバタと騒がしい中で、僕はせっせと自分の荷物を鞄に詰めていく。
嬉しいな。今日からタッくんの家にお泊まりだ。
そう言えば、どうやら|二ノ宮家《タッくんち》はうちに通っているメインの|訪問看護師《プライベートナース》がお父さんだと思ってるみたい。まあね、あの人は一番長いしね。ふぅん、他からはそう見えるんだ。
なんとなく可笑しくなって、特に訂正はしないでおいた。
こんどお父さんにSNSで教えてあげよう。「仕事が看護師だと思われてるよ」って。
そうして滞在することになった|二ノ宮家《タッくんち》なんだけど、僕にはビックリすることばかり。
服を汚しても声を上げて笑っても、テレビの音を出しても怒られない。
それとタッくんも、タッくんちのおじさんもおばさんも、よく喋る。
朝も晩も、給食みたいに家族全員で一緒にご飯を食べながら、今日は何する?今日は何があった?ってお喋りするんだ。
僕も毎日訊かれて毎日答えて、それにタッくんやおじさんやおばさんが「へぇ」って驚いたり感心したり喜んだりする。そしてまたドンドン話が繋がって広がっていく。
料理だって冷凍でもレトルトでもない。地元の野菜がいっぱいでメインは大皿。ベッドじゃなくて布団だし、洗濯物は乾燥機じゃなくて外に干す。
うちとは何もかもが違う。
なんか上手く言えないけど、心も身体もふにゃっとしてポカポカして、フワッと軽くなる感じ。
すごいなぁ……うん、タッくんちはすごい。
「タッくんちってすごいね」
「そうか?フツーじゃねぇか?」
…………え?
………
…そっ…か。これがタッくんの「普通」
そっか。そっか、そっか、ああ、そういうことか。
やっぱりタッくんはすごい。すごいや。
今日も僕はタッくんに大切なことを教えてもらっちゃった。
ストーン!といろいろ納得した。
もうそれからの毎日は、ただただ楽しかった。
朝ご飯、いってらっしゃいといってきます、ただいまとおかえり、おやつのあとは外を駆け回って、ちょっと我が家に寄って金魚のお世話。そして帰ったらお風呂と夕飯のお手伝い、お腹いっぱい夕飯をたべて、ちょっと勉強して、布団を敷いて、寝る。
お彼岸にはおはぎ、お月見にはお団子。
二人で秋の七草とふわふわのススキを採りに行って、余ったススキでフクロウ作り。
夜には庭でコッソリ虫を観察。
ついにマツムシ、スズムシ、コオロギ、クツワムシをフルコンプ。
別の日には、二人で毛布にくるまって星を見上げて、「よく分からない」「テレビの嘘つき」ってコソコソと文句を言い合った。
朝から夜寝るまで、ずぅーっとタッくんと一緒。
それでも、日が経つにつれて僕の気分は重くなる。だって、それだけ家に帰る日が近づいて来るから。
朝方に目が覚めて、タッくんが隣で寝ていることにホッとする。
そっとタッくんの布団に潜り込むと、温かくてお日様のにおいがして、また僕はゆっくりと眠ることができた。
そして、
3週間ほどしたある日、迎えが来た。
「また遊びに来いな!」
玄関先でニッコリと手を振ってくれるタッくんに手を振り返して、我が家からのお礼に恐縮するおばさんにも手を振って、僕はタッくんちを後にした。
タッくんちの敷地を出た途端に、早足で歩き出した|母親《あのひと》は相変わらず。
でもよく見たら、もう160センチの僕の方が少し背が高い。そんなことも気がつかなかった。これもタッくんのおかげかな。
僕は少し足を速めてアッという間に|そ《・》|れ《・》を追い抜くと、真っ直ぐに前を向きながら家に向かって歩いて行った。
【小学5年生 冬】
タッくんが怪我をした。
雪玉の中に石が入ってたんだ。ひどい。
タッくんは「こんなの大したことねぇよ」って笑ったけど、絶対に痛かったはず。
だって血が滲んでる。
「佐藤ぉぉーーてめぇかぁぁぁーーー!」
タッくんの反撃に僕も全力で協力した。
ふぅん、アレが犯人の佐藤か。
名前と顔は覚えたよ。
【小学校6年生 春】
タッくんが中学生になった。
中学校の入学式の日、一番におめでとうって言いたかったのに、ほんのちょっとで間に合わなかった。
チラッと見えたのは、おじさんの車に乗り込むタッくんの詰め襟の後ろ姿。
だから翌日の初登校の時には早めに家を出て、タッくんの家の前で待ってたんだ。
「おぅ、玲二。どうだカッケーか」
詰め襟の制服のタッくんは本当に格好良かった。
タッくんが引いている自転車は、小学校とは反対の方を向いている。
僕とは違う方向に行ってしまうタッくん。
そう思ったら、タッくんにワシャワシャ頭を撫でられて嬉しいのに、なんだかすごく悲しくなってしまった。
どうして僕は……1こ年下で生まれてきたんだろう。
【小学校6年生 夏】
タッくんは中学校でバスケ部に入ったそうだ。
週に5日は練習で、帰ってくるのは夜の7時近く。日曜はお休みだけど、土曜日はお休みだったりそうじゃなかったり……
夏休みだって同じ……ううん、もっといっぱい練習があるみたい。
タッくんに会えない日が続いて、僕はもう限界。
小学校にも話す相手や遊ぶ相手はいるけど、タッくんとは全然違う。1時間も遊べば帰りたくなってしまう。
限界の僕はタッくんの帰る時間を逆算して、中学校の方まで足を伸ばしてみた。
6時半過ぎ、中学校の校門から出てくる中学生たちの中にタッくんを発見。
タッくんがひとりになったら声を掛けようと思ったのに……ねぇ、その人だれ?
なんで自転車に乗らないで押して歩いてるの?早く乗りなよ。
女子と二人、自転車を押しながら楽しそうに話すタッくんが、その女子に照れたように笑いかける。
あんなタッくんの顔、見たことない。
ミシッ……
と、どこかで桜の枝がきしむ音がした。
そして日曜日、
出かけるタッくんの後を付いていったら案の定、隣町のショッピングセンターであの時の女子と待ち合わせていた。ふぅん……スポーツ用品店か。
スマホで適当に買い物をチャチャッと済ませ、頃合いを見計らってスポーツ用品店の入口の前へ。
「え?タッくん?びっくりしたぁ。偶然だね」
「玲二、お前なんでここに?俺もビックリだよ」
お買い物済んだみたいだね。じゃあ僕と帰ろうよタッくん。
家に帰りたいって言ったら、もちろんタッくんはその女子じゃなくて僕を選んでくれた。嬉しい。
お金がないのは嘘じゃないよ。僕はスマホしか持ってないもの。
うん、アイスはタッくんと二人で食べたかったかな。
【小学6年生 秋】
やっとタッくんの部活が落ち着いたみたい。
練習は相変わらずだけど、週に何日かはタッくんと話せて、2週間にいちどはタッくんと遊べるようになった。
うん、僕もタッくんのスケジュールは完璧に把握したからね。
そうそう、あの女子はバス通学に変わって、タッくんとは一緒の道で帰れなくなっちゃったらしい。
あの女子の家、坂道の上にあるから、ブレーキがきかない自転車は相当怖かったんだろうね。気の毒に。
でも大した怪我じゃなくて良かったね。バスの方が安全だよ?
今日はタッくんと今年初めてのキノコ狩り。
二人で気持ちのいい秋の山を歩いて、お喋りしながら次々と色んなキノコをゲット。すごく楽しい。
「気をつけて選べよー。こないだ佐藤んちが間違えて毒キノコを味噌汁に入れちまって、家族全員入院したらしいぞ」
「え、そうなの?恐いね」
山のキノコは、僕が先々週に来た時よりももっとたくさん生えていた。
入院って言っても3日程度でしょ。
タッくんのキズは10日も残ってたんだよ?僕はあの雪合戦の後、タッくんの傷を見るたびに胸が痛かったんだ。因果応報ってやつだよ。
佐藤さんちってば、採ったキノコはカットして外で干してるけど、ちゃぁんと見ないとね。カットするとますます分かりにくくなっちゃうからさ。次からは気をつけて欲しいよね、イロイロと。
【小学校6年生 冬】
「玲二、話があるわ。ちょっといらっしゃい」
冬のはじめ、家に帰ったら声がかけられた。
我が家の玄関先で声をかけてきたのは………誰だっけ。
……ああ、|母親《あれ》か。
一瞬、本当に誰だか思い出せなかった。まあいいや。
靴を脱いでまっすぐに自分の部屋へ向かおうとしたら、通り過ぎたはずの|そ《・》|れ《・》が腕を掴んできた。
「|お父さん《あの人》から聞いたわ。あなた私立受けないんですって?何考えてるの。ちゃんと受験しなさい!」
耳障りな音がキンキンと鼓膜を震わせる。
掴まれた腕を外して廊下を進もうとしたら、また腕を掴まれた。
「話を聞きなさい玲二!小学校のうちはともかく中学が田舎の公立なんてみっともない!それにあなたおかしいわ。あの納戸は何!?二ノ宮って子とはもう離れなさ…」
その瞬間、
手が出ていた。
うるさいそいつの口と顎を片手で掴んで、ドンッと廊下の壁に押しつける。
「うるさいんだよ。あんたは黙ってな」
ゴテゴテとマスカラをつけた固そうな睫毛を忙しく瞬かせて、|俺《・》を見上げてきたそいつ。俺はその化粧くさい顔を覗き込むと、その目を見据えて口を開いた。
「俺の将来はあんたか考えることじゃない。父さんとは話し合い済みだ。兄さんだけでなく俺もあんたのアクセサリーにするつもりか?冗談じゃない」
|掌《てのひら》に触れるヌルヌルとした口紅の感触が気持ち悪くて、俺はそいつの口元から手をずらして顎だけを押えた。
真っ赤な唇から「なんて事言うの」だの「大変」だの「あなたには分からない」だの「お兄ちゃんがカワイソウ」だの返事にもならない雑音が吐き出される。
なのでそいつの顎をさらにグッと押えてまた黙らせた。
ヌルヌルとした赤い唇がタコみたいになって笑ってしまいそうだ。
「カワイソウって言って欲しいのはあんただろ?世話は看護師や介護士に丸投げしてるくせに、何が大変だよ。そもそも兄さんをここに連れてきたのはあんたの都合じゃないか。向こうにいりゃあもっと兄さんの病気の進行は遅かったはずだ。
難病の兄さんを盾にした生活は居心地いいか?代理ミュンヒハウゼンなんて言葉もあるけど、あんたのは夢見たセレブ生活が崩れた馬鹿女の言い訳作りだ。途中までは有頂天だったんだろ?」
一気にそれだけを言うと、俺は片手でスマホを開いてみせた。
こいつが看護師の男とベッドの上にいる画像を次々と指でスワイプしていく。
こいつがここに来たのは父さんや父さんの親戚や会社関係から逃げるため。ああ、ご近所の目もそうかな。生育や教育レベルが違うとツラいだろうからね。英語くらい覚えろよって思うけど。
兄さんっていう言い訳を盾に、心置きなく金を使いつつ年下の愛人と過ごせる環境にここはピッタリだったというわけだ。
部屋から出てきて俺を止めようとした看護師にもそれを見せつけてやれば、看護師はガチリと固まった。あんたもよく話を聞いとけよ?
「二度と俺のことに口を出すな。俺の部屋に入るな。もしまた部屋に1歩でも入ったらコレをネット上にバラ撒く。クラウドに保存してあるからスマホを壊しても無駄だ。それさえ守ればあんたは今まで通りにカワイソウな寄生虫生活ができる」
ね、悪い話じゃないでしょ?――
すぅーっといちど息を吸い込んでからニコッと笑った俺に、目の前のそいつは怯えた目で同意を返してきた。
うんよかった。分かってもらえて。
これもタッくんのおかげ。
タッくんが|僕《・》に客観的な目をくれたおかげ。
あれ以来、色んな事が腑に落ちて、いちいち大笑いしちゃったよ。
僕は視線を廊下の先に向けると、急いで自分の部屋へと歩き始めた。
ああ早く消毒しなくちゃ。手も、あの部屋も。
キレイなキレイな『宝物部屋』を汚されるなんて二度とごめんだ。
【中学1年生 春】
入学した中学校ではタッくんと同じバスケ部に入った。
学校に行くのも、朝練も、放課後の練習も、帰るのも、タッくんと一緒。これこれ、これだよ。
ああ気持ちが落ち着く。毎日がまた楽しくなった。
バスケは特に好きでも嫌いでもなかったけど、タッくんが楽しいって言ってたから僕も楽しくなってきた。
確かにタッくんを見ていられる練習は楽しいし、練習試合でゴールを決めるとタッくんがすごく喜んでくれるから楽しい。うん、タッくんの言う通りだね、バスケはすごく楽しい。
タッくんが見ててくれる練習試合でゴールを決めたら、タッくんが「カッコイイ」って言ってくれた。「カッコイイに決まってる」って。
嬉しいな。でもそんなに正面切って言われると照れちゃうよ。
僕がんばってもっとカッコよくなるから。
ずっと僕を見ててね、タッくん。
【中学1年生 夏】
夏休み後半のバスケの全国大会予選。
順調に準決勝まで進んだコートの中、ふと2階の応援席を見るとタッくんが隣の女子と同じリズムで両手を振っていた。
二人で時々目を合わせてニコニコして、揃って手をパタパタ。
ひどい。
ずっと僕を見ててくれるって言ったのに。
隣の女子バスケ部の2年がタッくんに何やら話しかけて、タッくんがそれに笑顔で頷いた。
ああなるほど。話しかけられたんじゃ仕方ないか。タッくんは優しいから。
でもお願い僕を見て?
でないと……
ほら、失敗しちゃった。
僕らのチームは準決勝で負けてしまった。
まあ仕方ないよね。
【中学1年生 秋】
山の中に仕掛けられている、くくり罠。
猪や鹿が足を突っ込むと、バネが跳ね上がってワイヤーが足に巻き付く仕掛け。
単純だけど、これがけっこう効果あるんだよね。
でも有害鳥獣駆除って手続きが面倒だし、やたらめったら罠をしかけていいわけでもない。
数が限られてるし場所も期間も限られている。だから分かりやすい。ぜんぶタッくんに教えて貰ったんだ。
木の幹にグルグルとビニール紐で括り付けられてる「ワナ危険」の看板。
このあたりはちょいちょい罠の設置場所を微調整してるから、看板も木製とかじゃなくて簡単に括り付けられてるって事は知ってるんだ。
そのビニール紐をちょっと鋭利な石の角でギリギリと切っていく。鋏で切ったら不自然でしょ?
無事に外れた看板を地面に伏せて、時計を見ると……うん、もうちょっとかな。
チョイチョイと仕掛けをいじってワイヤーの輪っか部分を本体から外したら足を通す。そして程よく足首を締め付ければホラね……ハイ捕まっちゃった。
あ、そろそろいい時間かな。
スマホを取り出して僕はタッくんに電話をかけた。
「タッくん……たすけて」
タッくんはすぐ来てくれるって言ってくれた。
仕掛けた人に連絡しろ、って言うだけで来てくれない可能性もゼロじゃなかったから本当に安心した。
嬉しいな。やっぱりタッくんは僕を選んでくれる。
こないだからギシギシミシミシとうるさかった僕の桜が……スゥッと静かになっていく。
ああ良かった。本当に良かった。
タッくんがもし来てくれなかったら……
――|ど《・》|う《・》|し《・》|よ《・》|う《・》かと思ったよ
【中学1年 冬】
2月の14日はバレンタイン。
この数年、この日になると何人もの女子たちがチョコレートを押しつけてくる。
バレンタインは好きな男の子にチョコをあげる日。
ろくに話したこともない女子が、なぜ僕を好きだなんて言ってくるのかまったく理解できない。
カッコイイって何?カッコイイのはタッくんだよ。
去年なんか日曜日だったにもかかわらず、ポストの中にいくつものチョコがパラパラと突っ込んであった。前日の土曜日のうちに他の女子たちと一緒に渡してくれればよかったのになぁってウンザリした記憶がある。だってまとめて捨てやすいでしょ。
今年の2月14日は平日。
学校にお菓子は持ち込み禁止なのに、女子たちに呼び止められ呼び出され待ち伏せされて、次々とチョコを渡された。特に下校の時の校門の前なんか最悪。
君たち早くして、タッくんが行っちゃう。
貰ったチョコを紙袋に放り込んで、自転車の籠に詰める振りをして『特別なチョコ』を一番上にした。
去年は練習が足りなくてネットで取り寄せたチョコだったけど、今年は僕の手作り。
取り寄せた20種類くらいの中からどれがいいかなーって選ぶ去年も楽しかったけど、自分で考えながらミルクやダークやビターを調合する今年はもっと楽しかった。
これ1コに何万か使っちゃったけど、そんな事は問題じゃない。肝心なのは味と舌触りと香り。
去年1年かけてタッくんの細かいチョコの好みをサーチした努力が実を結ぶか否かの大事な日だ。
幸いにしてタッくんは本命チョコは貰ってないみたい。
よかった。貰ってたらまたタッくんに相応しいかどうか確認しなきゃいけないところだったよ。
いつかはタッくんも彼女を作るんだろうけど、
………ミシッ
それまでは僕がタッくんの一番のトモダチだから、
………ギチギチッ
カッコよくて太陽みたいなタッくんが、レベルの低い女子に捕まらないように
………ミシッミシミシッ
ちゃんと見てないと……そう、見てないとね。
うん、義理チョコ押しつけたっていう女子3人は後で調べておこうか。
タッくんは僕が渡したチョコレートを大喜びで受け取ってくれた。
おまけに好みにドンピシャだって。やった!
タッくんに渡したチョコは、もうタッくんのもの。
だからタッくんの手で渡された半分のチョコは、タッくんが僕にくれたチョコ。
しかも今年はピンクの小さなハートつき。
嬉しいな。
バレンタインは好きな男の子にチョコをあげる日。
タッくんも僕が好きってことだよね。
僕は家に帰って、手にした紙袋を上機嫌でゴミ箱に放り込んだ。
【中学2年生 春】
明るくてカッコよくて優しいタッくんの周りには、いつだって人がいっぱいで笑顔が溢れている。
それは小学生の時からずっと同じだけど、最近ではその中に、余計な感情が入った視線を送る身の程知らずな女子がポツポツと混じるようになってきた。
そのたびに僕の桜はミシミシと音を立てて、もうそろそろ亀裂が入ってしまいそうだ。
いや分かってるよ。タッくんはカッコよくて優しいだけじゃなくて成績もいいからね。
タッくんが何でもできるのは当たり前のことだし昔からそうなんだよ?僕が一番よく知ってる。一番ね。
「桜の枝が折れちゃって腐りそうになったら、どうしたらいいの?」
思い切ってタッくんに訊いてみた。
タッくんは何でも知ってるから、きっとこの亀裂を広げる僕の桜の枝の治し方も知ってると思ったんだ。
そしたらね、タッくんはちゃあんと教えてくれた。
薬をたっぷり塗って、桜を苦しめる菌は早いうちにやっつける……
ああやっぱり、タッくんはすごい。タッくんに話すだけで僕の桜はどんどん元気になっていく。
タッくんは僕の桜を元気にする薬……最強の薬だね。
うん、中に入ってこようとする菌は、早めにやっつけることにするよ。
胸がスッキリして、タッくんからスポーツドリンクも分けて貰って、僕の桜はすっかり満開。
あ、待って。あとひと口だけ。
このひと口で、飲み口の周囲ぜんぶに口を付け終わるんだ。
【中学2年 秋】
ここのところ、兄さんの具合はずっと悪い。
病気が進行して、もう目しか動かせない兄さん。
どこぞから取り寄せた冷凍食品と冷凍パンで食事を終えて部屋に戻る途中、ふと見ると珍しく兄さんの部屋に誰もいなかった。
ちょうど隙間時間が空いてしまっているようだ。まあ数分だろうけど。
あの看護師、下半身はゆるいけど腕は確かだから。まだ関係を続けてるあたり神経も図太そうだ。
でも|母親《あの人》、今はお金使えてるけど資産はないよ?お父さん、その辺シビアだから。くっついててもこの先いいことないと思うけどな。
だって僕が時々お父さんに|世《・》|間《・》|話《・》をしてるからね。
約束守ればネットにはバラ撒かないって言ったけど、お父さんに伝えないとは言ってないでしょ?
「兄さんも|俺《・》も運がないよね」
俺はベッドの上の兄さんに話しかけた。
焦点の定まらないギョロリとした兄さんの眼が俺の方を向いている。
「兄さんが発病したとき、俺はまだ腹の中……どうせ|母親《あれ》のことだから半狂乱でひどい言葉を投げつけたんだろう?妊婦の立場に甘えてさ。ああ、いいんだよ兄さん、分からなくても。もう理解する知能が低下してるのは知ってる。俺が話したいだけだから」
ドロッと目頭に溜まった目やにをティッシュで拭いてやりながら、俺は兄さんの顔を覗き込む。
「今から思えば、俺はいつだって兄さんが嫌いじゃなかったよ。誰よりも一番感情に正直だったからね。それが病気の症状だったとしても」
汚れたティッシュをゴミ箱に捨ててニコッと笑いかけてやると、兄さんがゆっくりと瞬きをした。
「気がつくのが遅れたのは申し訳なかったけど、どのみち俺には何も出来なかった。ただねこの先、呼吸と心臓だけを動かされるような酷い目には絶対に合わせない。約束する。父さんとも話し合い済みだ」
兄さんの曲がって強ばった手をそっと握ると、その指先は冷たかった。
「お互いに次は『普通』の家で生まれような。でも兄さんがいてくれて良かったよ。タッくんと会えたからね……ありがとう」
洗面所の方から何やら物音がして、誰かが戻ってくる気配がした。たぶん看護師だろう。何かを洗浄していたのかもしれない。
じゃあな――と、眉を下げて兄さんを見つめると、兄さんは俺の方をずっと見つめていた。まるで俺の言ったことを理解しているみたいな気になってくる。
そのまま|僕《・》は兄さんの部屋を抜けてダイニングへ。そして廊下から自分の部屋へと戻っていった。
それが、
兄弟二人だけで話した最後の時間になった。
【中学2年 冬】
晩秋に兄さんが都心の病院に入院して、僕はまたタッくんの家にお世話になる事になった。
ああ……なんて嬉しいんだろう。
タッくんは受験生。第一志望は全国的にもそこそこ名の知れた私立高校だって。
スポーツでも有名だけど大学進学率もいいし、ここからは快速を使えば1時間もかからず通える。
うん、僕の志望校も決まった。
タッくんが頑張って勉強している間、僕も頑張ってタッくんやおじさんおばさんのお手伝い。
「まあレイくん、手際がいいわねぇ!」
台所でおばさんを手伝ってたら褒められちゃった。
ニコニコ笑うおばさんの笑顔はタッくんに似てる。「おっレイくんの手作りか、こりゃ楽しみだ」ってニカッて笑うおじさんの口元もタッくんに似てる。やっぱ親子だなぁ。
太陽が3つもあるタッくんの家。そりゃポカポカするはずだよ。
僕は料理だけでなく、掃除や洗濯もお手伝いした。
人数が増えたらおばさんの負担が増えた、なんておかしいでしょ?手が増えるなら楽にならなきゃ。
僕が掃除した廊下をタッくんが歩く。僕が作った料理をタッくんが食べる。僕が洗った服をタッくんが着る……僕がタッくんの一部になったみたいですごく嬉しい。
タッくんの家に来て、僕はすっかり家事が好きになってしまった。特に大好きなのは洗濯。僕は張り切って洗濯係を引き受けた。
ネットで検索してどんな洗濯方法や干し方が一番いいのか、洗剤の種類や成分や使い分けを勉強。
洗濯は奥が深いんだよ。毎日が勉強と挑戦だ。
そんな洗濯だけどご褒美がちゃんとある。
洗濯前の、タッくんの香りが染みついた服を手にすることができるんだ。
タッくんの服にポフンッて顔を埋めてスーッと呼吸をすると、とんでもなく幸せな気分になる。
これを初めて発見したときは衝撃的だった。
まるですぐそばにタッくんがいてくれるみたい。
吸い込んだ香りと一緒に、タッくんの笑顔や一緒に遊んだときのキラキラした景色がパァァ!って浮かんでくる。すごい、すごい!
ハァ…と服に頬を擦り寄せれば、ソリの上でギュッとタッくんにしがみついた時の温かさや、気持ちのいい風と青い空の記憶が身体を駆け抜けていった。
そして気がつけば、僕は射精していた。
これには自分でも驚いた。指1本触っちゃいないのに……
もちろん僕だってオナニーくらいはする。でもいつだって|射精《だ》すのには時間がかかって苦労していた。|射精《だ》さなきゃ勃起が収まらないし夢精しかねないから仕方なく定期的にしていただけ。
夢精は好きじゃない……いつだって罪悪感が伴うから。夢に出てきたキレイなタッくんを汚してしまったような気になるから。
でもこれは……なんて温かくて幸せな気分になるんだろう。
だめだ……僕はもうこの幸せを手放せない。
僕は洗濯に情熱を傾けるようになった。もちろん料理や掃除の研究と精進も怠らない。
毎日のお風呂はタッくんのすぐ後に入るようにして、ゆっくりと幸せを噛みしめる時間を作った。
時たま素晴らしく秀逸な香りを纏ったお宝があるとテンションは爆上がり。
そんな時はそっとそれをジッパー袋に入れて保存。非常用の癒しのお守りにした。
もちろん同じ柄とデザインのものを洗濯機に放り込んでおくことは忘れない。
ファッションセンターで2枚ひと組で売ってるのを見た時は、思わずガッツポーズしちゃった。
父さんからはたまにSNSで兄さんの状況が伝えられる。
この冬は越せないかもしれないって。そっか……
でも会いには行かないよ兄さん。僕に出来ることは何もないから。
僕はここでどっぷりと幸せに浸ってることにする。
兄さんの分まで幸せに…なんて傲慢なことはもちろん思っちゃいないさ。
僕は僕自身が見つけた幸せの光を、身勝手に追い続けることにしたんだ。
だからどうか兄さんも……次の幸せに進んでいってくれ。
できる限り苦しむことのないよう、僕はここで祈っているよ。
【中学3年生 春】
兄さんが逝った。
その知らせを受けたのは、タッくんに新しい制服が届いた日。
うん、分かってた。そろそろだろうなって。
「なんで?!なんでよ!人でなし!」
病院に到着すると、人工呼吸器も気管挿管も拒否したお父さんに、|母親《あの人》が狂ったように殴りかかっていた。
「あれ以上あの子を苦しめられるものか!人でなしはお前だ、全部知ってるぞ!」
お父さんが|母親《あの人》を突き飛ばして怒鳴りつける。
正直、ド修羅場だ。
いくら病院の特別室とは言ってもガッツリ人目がある。よくやるよ二人とも。
まあ|俺《・》に言わせりゃどっちも人でなしだけどね。ああ、俺もか。
自分の言い訳のために息子を盾にした母親、社員の生活を盾に家庭から目を逸らし続けた父親、それをただ見ていた俺。
ねえ兄さん、見てる?
これが俺たちの『普通』なんだよ。
通夜に葬儀に火葬場。
人でなしの家族と見ず知らずの参列者に見送られて旅立っていく兄さん。
悲しみのメッキに包まれたその中身に、よく分からないものが俺の中から次々とこみ上げては喉に詰まって、正直吐いてしまいそうだった。
「玲二、お父さんとお母さんはこれから色んな始末をつけなきゃいけない。分かるな?お前はどうする?」
すべてが終わって火葬場を出ると、父さんが|母親《その人》をあごで示しながら言ってきた。まあ両手は|小さな箱《兄さん》で塞がってるからね。
「俺はすぐに向こうの家に戻るよ。その人は二度と寄越さないで」
「分かった。ひとりで大丈夫か」
「楽勝」
父さんとは話が早い。だから気に入ってるんだ。たぶん父さんも同じ。
俺、早くタッくんのところに帰りたいんだよね。
「なんであんたたち笑ってるのよ……こんな場で。異常よ……あんたたち変だわ…あんたたちが変なのよ……」
|母親《アレ》には俺たちが笑ってるように見えたらしい。本当に馬鹿だな。ヘンって何だよ。これがうちの『普通』だろ。いまさら何を言ってやがる。
「じゃあ俺、戻る」
いいかげん面倒くさいのであとは父さんに任せて、俺はサッサと駅に向けて歩き出した。
後はもう俺には関係のない夫婦案件だ。俺が小5から書き始めた詳細な「日常」と過去の「思い出」を綴った非公開ブログの存在と、スマホの写真はすべて父さんの手に委ねてある。父さんならきっと上手く使ってくれるだろうさ。
全部終わって、|僕《・》が町に帰ってきたのは夜の7時近く。
駅の改札を出れば、周囲は街灯の少ない真っ暗ないつもの町。黒く鬱蒼とした山の影が僕を出迎えてくれた。
この5日間のことはロクに記憶に残ってない。
あんな空っぽの儀式で、人ひとりを見送ったことになるんだろうか。
……ああ、桜が見たいなぁ
帰るなり玄関先で「桜が見たい」と言った僕に、タッくんは何も聞かずその場で上着を羽織ると、黙って川の方向へと僕を案内してくれた。
暫く歩いてタッくんが指さしてみせたのは、1本の桜。
静かで真っ暗な河川敷で、その1本だけが|仄《ほの》かな街灯の明かりを受けてフワリと立っていた。
暗闇の中で、右側だけにボンヤリと満開のピンクを浮かべた桜は、カネのかかったあの空っぽの葬儀よりも、なぜだかよほど弔いに相応しい気がした。
その弔いの桜を前にしたら、僕の喉にずっと詰まっていた何かが……怒りにも嘲笑にも似た、けれど違う何かが突然ググッとせり上がって、僕の口から桜に向けて吐き出され吸い込まれ……
――それがお前の悲しみ方なんだろ
タッくんの言葉とその温もりに身体を包まれてようやく、
僕は、息の仕方を思い出した。
Comments